2003年12月2日号(NO.160)

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鮎三昧 其の六   友釣りの歴史(万葉の彼方から) 

今年の鮎の友釣りはまさに悲惨な年で
あった。釣果もついに米代川水系では
百匹足らずと友釣りの醍醐味もほとん
ど堪能できずに納竿となった。日本海
の海流が移動し対馬暖流がはるかロシ
ア側に移動し、冷水塊が日本側に居座
ったため、稚魚の遡上が極めて少なく、
さらには数年前から鮎を蝕んでいる冷
水病が不漁に更なる追い討ちをかけた。
シーズンも終わり冬将軍の到来となる
師走を迎えて、じっくりと友釣りを見
直すことにした。
 一体、友釣りというのはいつ頃から
始まったのだろうか。
 文献に鮎のルーツを辿ってみると
古事記には神宮皇后が着物の糸と縫い
針を使って鮎を釣り、朝鮮出兵の際の
勝敗を占ったといい、このため鮎とい
う字には占いという漢字が当てられて
いるようだ。しかし、これはもっとも
らしい当て字のようだ。鮎は安由、阿
由など多くの記載がなされ、語源は定
かではない。
 また万葉集には鮎に関する歌が残さ
れている。大伴旅人、大伴家持の親子

 松浦川川の瀬光り鮎釣ると
   立たせる妹が裳の裾濡れぬ
 若鮎釣る松浦の川の川なみの
   並にし思はば我れ恋ひめやも 
という歌を詠み込み、親子で鮎が好物
であったらしく、わかっているだけで
もその数は15首に及ぶとのこと、妙
なところで万葉集に愛着を覚えた。
 平安時代になると貴族の料理として
珍重され、賞味のみならず、鮎の美し
い姿を観賞したりするとの記述がある。
もっとも、われわれのようなものでも、
鮎の背中部分の盛り上がりや背ビレの
形、油ビレの色などから、これは放流
もの、これはどこそこの鮎などと解説
を加える。貴族にも珍重される鮎とな
れば、また来年も友釣りに精を出さね
ばならないのである。
 さて江戸時代には争いのない平和な
世の中で武将の生活が乱れているのを
憂い、闘争本能の強い鮎釣りを奨励し
たとのこと。武士道の武将から見れば、
弱体化して行く武士の様相に危惧の念
を抱いたためなどというもっともらし
い記載もあった。軟弱な医者にならな
いためにも友釣りは必要不可欠な趣味
なのである。
 鮎の友釣り発祥の地と発案者に関し
ては伊豆狩野川瀧源寺草庵の虚無僧法
山(安政九年[1780年]没)が狩野川
の吊り橋で、尺八の練習中、川を眺め
て、鮎が体をぶつけ合って争っている
(つまり縄張り鮎が侵入してくる鮎を
撃退しようとする)のを見て、針を付
けると掛かるのではないかと思いつき、
漁師に伝えたとか。なにせ狩野川とい
えば、鮎の味、釣りの難しさなど日本
有数の鮎河川であり、聖域でもある。

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天保3年(1832年)に伊豆の代官所は、
狩野川の鮎の友釣り禁止令を出してい
る。狩野川は天城山地から発して、駿
河湾に注ぐ鮎の名川として知られるが、
春になると多数の稚鮎が遡上して、夏
には見違えるほどの大鮎に成長する。
川沿いの村人たちは、川にヤナを架け、
鮎漁で生活をしていた。ところが天保
元年頃から天野村内の川で、友釣りと
いう新しい釣法で多数の鮎を獲るもの
が現れ、竹の釣り竿に糸をつけて、そ
の糸に生きた鮎と針を結び付けて、流
れの中に入れると鮎がいとも簡単に釣
れているのである。ヤナで鮎漁をして
いる村人たちは大いに慌てたという。
こんな釣り方で鮎を獲られては、自分
たちの生活は脅かされ年貢も払えない。
即刻禁止してほしいと代官所に訴状。
その願いが聞き入れられて鮎の友釣り
禁止令が発令されたのである。この古
文書は、現在、静岡県田方郡大仁町に
残っており、友釣りという言葉が初め
て書かれている最も古い文書である。
つまり天保の初期(1,826年から1,832
年)には、狩野川では鮎の友釣りが行
われていたのである。今からざっと170
年程前である。その後、狩野川で禁止
された友釣りは、駿河湾に注ぐ河川を
東から西へ伝わっていった。天保年間
には、駿河湾に注ぐ川のほかに、茨城
県の久慈川でも友釣りが行われていた
らしい。これは「加藤寛斎随筆」の中
に「鮎のおとり釣り」という題で、描
かれている随筆の中にある。江戸時代
末期には、関東の利根川では1,845年に
友釣りが行われている。愛知県の豊川
上流部や、1,850年に岐阜県長良川あた
りでも友釣りが行われたと記録されて
いる。豊川の友釣りは、みんな裸で立
ち込んでやっていたらしい。長良川の

友釣りは、安政5年(1,858年)に禁止
となっている。友釣りの釣りバリが鮎
の体に刺さって、その鮎を鴨がくわえ
ていったことから、友釣りは危ないと
いうことになったためである。関西地
方においては江戸時代の友釣りの記録
は見当たらない。紀州の殿様ご用命の
アユは、みんな網(刺し網?)でとっ
ていたという。大正中期から昭和の初
期の日中戦争がはじまるまでの間は、
鮎釣りの最初の最盛期だったらしい。
毛バリ釣りも、友釣りも行われ、釣り
人は職漁者と趣味の釣り人に分かれて
おり、琵琶湖の稚鮎の放流も全国的に
行われている。稚鮎の放流で、鮎釣り
人口はいよいよ増えていくようになり
鮎はその数といい、釣り人の数といい、
実質的な川の女王となったのである。
 鮎の友釣りほど仕掛けが地方により、
釣り人により、異なる釣りはそれほど
ないと思われる。友釣りひとつをとっ
てみても、引き釣り、泳がせ釣り、背
針釣り、錘釣りと枚挙に暇がない。こ
こで面白いのは江戸時代では、まだ鮎
の縄張りの習性を全く分かっていなか
ったらしく、鮎がハリに掛かるのは、
友だちが来たと思って近寄ってくると
古文書では述べていることである。今
なら縄張りに侵入した鮎を追い回すた
めに掛かるのだということは初心者で
も知っていることだが・・・・・・・
今や鮎の友釣りは、職漁者に代わって
趣味の釣り師のものとなっている。し
かし、現在でも京都の上桂川や岐阜の
郡上八幡、狩野川などにあっては職漁
師が残っている。一方でメーカーが抱
えるセミプロも多く、各種競技会やイ
ベントを通じて趣味人としての鮎師に
新製品を毎年のようにちらつかせる。
夢中になるあまり、新製品を用意して


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は、この川あの川と釣り行脚。このた
め破産やリストラ、挙句の果ては女房
に逃げられたという御仁は見渡せばか
なりの数に上る。
 釣法の全国展開は明治時代に入って、
国鉄の鉄道網が整備されるに伴い、狩
野川の鮎釣り師が全国に出かけ、地元
の釣法と異なる方法で、鮎を大量に釣
ってみせ、一部は地元に残り、釣法を
伝えることから鮎の友釣りが広まったようである。
 当時、鮎は高級魚であったため、鮎
友釣り師は、竿一本で友釣りの旅に出
かけ、芸者を上げて優雅に暮らしたと
のこと。僕も一度でいいから現在の装
備でタイムスリップしてみたいもので
ある。毎日が入れ掛りで束釣り(10
0匹)の世界、現在と違い育ちもよく
スレ鮎のいない状況ではおそらく1週間
で利き腕の腱鞘炎は間違いないであろ
う。おまけに毎日芸者をあげて大騒ぎ
ではたまったものではない。しかし一
度は行ってみたい世界かも・・・・・。
 高級魚で貴重品だった鮎も、現在は
養殖鮎が出回るようになり、大衆化し、
今では川の水を生簀に引き込み流れを
作り、9月頃には日照時間の減少を集
魚灯で補い、サビ鮎を作らずにいつま
でもビカビカの天然仕上げという鮎ま
でいるご時世である。
 しかし、天然鮎は食べては養殖鮎と
ひと味もふた味も違うということもあ
って、釣りの面白さとあわせ、鮎の友
釣りに夢中になる所以でもある。もし
天然鮎を食べたかったら魚屋よりも、
鮎狂いを探したほうがベターである。
これは友釣り師に共通するところであ
るが、鮎は釣っても自分では多くを食
べない人が多いことも面白いところで
ある。自分の釣ってきた鮎を自慢げに
食べさせるのが鮎師の生きがいなので
ある。
 鮎は姿よし、香りよし、味よしの三
つをそろえた日本固有の香魚である。
このため納竿から半年以上の長い間、
じっと鮎とのご対面まで我慢して過ご
せるのである。まさに鮎三昧の四季で
ある。来年こそは入れ掛かりの醍醐味
を堪能したいものである。
 (詠み人知らず・・・・・・)

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