雑題四題の表題にしようかと思ったが、当医師会の会員の随筆についてや高名の方に関する事も記しているので、雑という字は適当でないと考えた。
でたらめに書くのもなんだから、書こうとする事柄が生じた順に記すこととした。
1).「医師会だより」No.143号、2002年6月25日発行のY.S先生の「ツーハン」の文章についてである。表題を一瞥して「あれっ、麻雀ならリャンハンだったな。なんだろう」と読んだ。いやはや、大変滑稽で大笑いして、しかも心強く思って「そら、S先生だって。俺だけじゃないぞ」と家内にも読ませたのであった。
実は小生もやはり、夜中にアルコール類を飲んでは、しばしばテレビのこのツーハンに申し込むのである。常連客らしく、当方の電話番号を言っただけで住所が出ているようだ。思いつくまま2、3記す。10年も前だが、最初は、どんな垢でもすぐ落ちる洗剤だった。品物が届いたが、家内に「要らない!」と使用を断わられて、ならばと医院に持って行ったら看護婦にも「要らない」と言われた。
これもだいぶ前だが、ゴルフのスイングをする短い棒で中に重い球体が入っているらしい。理屈はスイングの最大速度の所でカチッと鳴るのである。これでボールの所でカチッと鳴るように、家の中でも何処でも練習するとメキメキ上達とか。すぐ注文。ところが小生は聴力が悪い。スイングのどの辺で鳴っているのか分からなかった。家内に「くれる」と言ったが「そんなものを使うより、打ちっ放しにでも行った方がずーっとよい」ともらってくれない。ところが後日、欠陥商品だったから送り返してくれとの事。文句たらたらの家内に返送してもらったが、その後の品は紛失して今はない。
室内運動器具は何種買ったか分からない。縦にも横にも使えるはしご。家の外壁のホコリや垢を取るジェット流水鉄砲。これは荷物が着いたら気が変わって、荷を開かないで息子にくれた。ただ、必ず魚がどんどん釣れるという「バンジョーミノー」とか言う擬似餌セットだけは不思議に買わなかった。まるで、魚が1匹もいなくても釣れそうな宣伝であった。息子達に「よく買わないねー」としばしば皮肉とひやかしを言われた。これは最近もうテレビに出なくなった。Y.S
先生ありがとう。
2).「医師会だより」No.145号、2002年7月30日発行のT.T.先生の「海はいいなー」の文中の「ジューッ」についてである。実は小生、寮歌のお客さん達が毎年能代に来て、不老ふ死温泉に泊まる行事の幹事をやっている関係上、平成10年頃から案内文に「落暉の時に、運が良ければ『ジューッ』が見られます」と書いて案内状を出しているのである。
ところが、関東地方の1人ならず、2、3人の方から「K先生、ジューッて何ですか」と聞かれたのである。「あれっ、通じないな」と思い、小生等の人に解ってもらえない私製の言葉かなと考えつつ「『ジューッ』ですか。真っ赤な太陽の灼熱の球が水平線の海面に触れる瞬間、ジューッと音がして、海水が飛び散り、ものすごい水蒸気が発生する光景です」と真面目顔で答える。「ホー」と、笑いもせず少し思案顔。こっちも真面目にからかわれているのかな。T.T.先生の文で小生等だけの言葉ではないなと安心していた。
ところがさらに、同じ年の平成14年10月に弘前市で偶然入手した深浦町の観光冊子に「ジュッ」を見つけた。観光冊子は同年4月の発行である。同年2月に青森市で伊奈かっぺいさんと深浦町町長の平沢敬義氏の「深浦、よもや・まぁ話」と題した対談も載っていた。その中で町長さんは「町職員の名刺の裏には、かっぺいさんの書き文字で『深浦の夕陽は、沈むときジュッと音がします。ウソだと思うならぜひ一度』と書いてもらいました」と言っている。こちらは「ジュッ」である。あの深浦の夕陽が沈む瞬間を観ていると、自然発生的に誰の心にも「ジューッ」または「ジュッ」という言葉が湧くのではないかな。
しかし、島根県松江市の宍道湖の夕陽も有名であるが、松江市の方やそれを観たかなりの方とお付き合いしているが「ジューッ」はとんと聞いたことがない。海や湖に夕陽が沈む所は無限にあるわけであるから、これは最近使われ出した五能線沿岸だけの言葉ではないか。どんどん使えば全国的な言葉になるだろう。この6月にまたお客さん達が関東から来るので、意識して使おうと思っている。T.T.先生ありがとう。
3).能代市山本郡醫師會三十年記念史が、苦労の末平成14年10月1日に上梓され、創立30周年記念祝賀会が、10月26日に平安閣で行われたのは記憶に新しい。
小生は、能代市山本郡医師会福祉年金会の項の執筆も割り当てられた。あまり読んではくれないだろうけど(失礼)、せっかくの30年の節目だからと思い、膨大な資料を当時のT事務長から借りてまとめた。まとめているうちに、「俺は年金会では監事だったのに、この項を書かざるを得なくなったので、年金会が解散してからようやくしかと年金会の事が解った」と思ったのであった。
ところが、10月末にN.S先生から「年金会に途中参加なのにもかかわらず、的確に要所、要所をキチッとおさえているのに驚いた」とお褒めのFAX文を戴いたのである。同時に、年金会設立準備中のK.J先生の太っ腹ぶりも称賛していた。さすが、年金会発足当初からかかわった先生、よくぞ読んで下さいました。N.S先生ありがとう。
自慢文で申しわけない。
4).昨年11月17日に、秋田市での秋田県剣道連盟創立50周年記念式典と祝賀会に出席した。ご承知のように、秋田魁新報社は全国の高校剣道部が優勝を競う魁星旗争奪剣道大会に多大な貢献をしておられる。祝賀会に秋田魁新報社社長の佐藤暢男氏もおられた。亡父の「世界遺産 白神山地」の著書が秋田魁新報社から現在も出版されている関係でご挨拶に行った。その際、小生が亡父存命中に父からフイルムを借りて作った「白神山地の植物」と題する絵はがきセットを進呈することになった。郵便の中に出来心で「明日休診」に書いた「北帰行余話」と「デカンショ節と万里の長城」のコピーを同封した。
ところがである。小生が試そうと思っていた、「万里の長城から小便をするとゴビの砂漠に虹がたつか」が挫折して、15円の有料トイレで用を足してきたという文を読んで、佐藤氏は或る方を思い出したという。すなわち、氏が出版部に在籍中に出版した昭和59年版の「秋田県紳士録」のコピーを同封してお返事が来たのである。
コピーには、阿部M氏という方が載っていた。昭和6年生まれ、秋田市出身で千葉県在住。国学院大文学部教授、同大学院教授、文学博士とあり、著書がたくさんある。快体験は?の快 の項目に「万里の長城で小便をしたこと」と記されている。阿部氏は紳士録ができた頃は血気盛りの?53歳、現在72歳と思われる。当時の出版部の佐藤氏は「後に残る書物だが、そのままでよいか」と確認をした記憶があるという。小生の随筆を読んで18年も前の事を思い出したのだろう。それにしても多忙を極める出版のお仕事の中、大変な記憶力と感服した。
阿部氏は、古き良き時代に「デカンショ節」を歌って青春時代を過ごしたのは間違いない。挫折した10歳年下の小生は、残念ながら歳が還暦になって血気が薄くなっていた事と、おおらかな時代はすでに変わって何事もせせこましくなったという時代、時節のせいと弁解しておく。紳士録上の阿部氏と秋田魁新報社の佐藤社長さんありがとう。
平成15年4月20日記
追記:ところがなんと、その後阿部氏が小生宅に来たのである。実は、この4月5日に松江寮歌祭に家内と参加し、ついでに日御碕と出雲大社などを観光して日本を造った神様を拝んできたのであった。帰能して、家内が「日本の神様を知る事典」という本を買ってきて「天照大神がどうのこうの」とは言っていた。今朝小生が目覚めたら、昨夜家内が布団の中で読んだらしいその本が、押されて小生の枕の近くにあった。なにとはなしに顔を挙げその本を見ると、なんと、監修 阿部M氏と大きな字が目に飛び込んできたのである。家内の本には4月19日求むと記されていた。家内と小生の行動とは全く無関係である。
朝食前、小生「おい、あの紳士録の阿部さんが家に来ていたぞ」家内「えっ」小生「あの本、阿部さんの本だぞ。阿部さん、我が家に来ていたんだ。不思議だなー。出雲の神様が君に買わせたのかな」という小事件があった。日御碕と出雲大社の神様ありがとうございます。表題を急遽「ありがとう五題」とした。4月25日記
(S.K)
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