2003年1月21日号(NO.149)    

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山本組合総合病院の始まり

大淵宏道  

 山本組合総合病院は昭和8年2月1日開院しており、平成15年2月1日で創立70周年を迎える。
 当時病院設立運動の中心的存在であり、その後専務理事、主管、顧問として病院の経営に長く係わってきた高階長吉氏(会員の高階一男先生の祖父にあたる)は「山本組合総合病院創業三十年史」を編集しており、創立当時の様子を生々しく記録されているので、病院が70周年を迎えるに当たりそれを要約しながら会員の皆さんに紹介したい。
 昭和の初期、東北各地は経済恐慌、農業恐慌の状況が続いており、医療を受ける余裕など全くなく、「医者の顔さえ見ないで死んでいく」さながら「医療地獄」と形容される程悲惨な状況を呈していた。そんな時「自分たちも医療を受けられるよう皆で力を合わせて自分たちの病院を作ろう。」という医療自治運動が地域の人々の共感を呼び賛同を得て、産業組合法による医療利用組合組織が結成され、これを母体として、昭和8年2月1日内科と外科の医師4名、病床数22で柳町に開院したのが今の山本組合総合病院の始まりでした。
 秋田県の医療組合運動は昭和6年秋田市で起こり、昭和7年2月今の秋田組合総合病院が開院している。山本郡では高階長吉が産業組合成田実部会長、平川六郎農会長等に呼びかけその協力のもとに、昭和7年9月21日産業組合部会総会で医療利用組合の設立が決まった。昭和7年9月30日この構想を発表、翌10月1日から「出資額一口五円、一ヶ月五十銭十ヶ月払い」の条件で組合員の募集を始めた。10月14日には成田実外1522名の調印を持って県に設立認可申請書を提出し、11月24日有限責任山本郡医療購買利用組合として認可された。
 医局編成は秋田医療組合病院の加藤三九郎院長の紹介により、名古屋医科大学にお願いすることになり、内科医は勝沼内科、外科医は斉藤外科から医師を派遣してもらう事となった。医局の陣容は院長田代勝洲、副院長村上繁次、和田義夫、明石庄治の四氏であり、医療組合の方は、組合長理事成田実、副組合長理事田中親政、専務理事高階長吉、松田善吉の体制でスタートした。病院の建物は明石庄治医師の医院を買収し、これを増改築した。
 開院に当たり田代院長は次のように訓示した。「医療行為は人の命を救う崇高な仕事である。我々はこの立派な仕事をさせて貰うため与えられた職場は有難く感謝の気持ちで守って行かなければならない。この病院に働くものは一体となって尊い仕事を理解し、病院を創立した趣旨を充分身につけなければならない。産業組合の精神は相互扶助であり、この趣旨を理解されて、その日々の仕事を楽しく過ごしていく事を希望する。」と。正に今でもそのまま我々職員に語りかけてくれているような気がする。
 開設以来経営は順調で、開院一週間を立たずして外来は百名を突破し、入院も直ちに増築しなければならないほどの盛況で従業員も役員もてんてこ舞いの忙しさだった。各地域からの要望に応えて分院の開設があいつぎ、昭和10年9月からは郡内の無医地区の無料巡回診療を行い、農村の医療に恵まれない人々から大喝采を博した。
 しかし昭和12年起こった支那事変により年度末までに11名の応召者をだすなど医師の応召が相次ぎ、医師不足が深刻になった。本院でも内科医一人で入院患者60余名を抱えざるを得ない状態だったりで、八方手を尽くしても医師の補充がつかず、昭和14年には分院を閉鎖せざるを得ない程の苦難の時代だった。この状態は応召中の医師が帰還する昭和21,22年まで続いた。医局員確保には病院創立当初から大変な苦労をしている。
 また当時の郡医師会の反対運動も病院の敷地建物購入妨害、対抗する医療組合設立、健康保険診療医取り消しなど大変なものだったらしく、低医療費を旗印にした医療組合に対して医師会が相当の危機感を持っていたことが想像される。現在の病診連携の時代からすると隔世の感がある。
 昭和12年国民健康保険法が制定実施されることに伴い、医療組合がこの事業を代行出来るようにするため、昭和13年7月1日単営の産業利用組合から郡連組織である保証責任山本郡医療購買利用組合と改組され、郡連会長には村岡子八郎、専務理事高階長吉、松田善吉の体制となった。
 昭和15年は皇紀2600年に当たり病院も開院7周年を迎えるので記念式典、記念行事を行い、東京医療組合長の賀川豊彦先生の「世界各国の医療体制と医療従事者の地位と保証」の講演会を開いた。
 昭和16年12月8日大東亜戦争に突入するが「郡連医療組合は弱体だから全国的に県連に統合すべし」との指示があり昭和17年11月1日より秋田県信用販売購買利用組合連合会として発足することとなった。「病院の使命も創業時の医療費の軽減と言う目的が一変して、大乗的に健兵健民の国家機関として活動しなければならなくなった。」高階長吉は主管の役職で職員として経営責任者となった。
 さらに、農業団体法の制定で農村産業組合と農会が合併して農業会となり、病院も昭和18年12月より秋田県農業会に代わったが事業の内容に変わりはなかった。
 応召中の医師の帰還に伴い、昭和22年には小児科、耳鼻科、産婦人科、皮膚科、歯科、物療科の専門各科を設置し、ここで病院として一応の体制が整い、昭和23年には盛大に創立十五周年記念祝賀会を開いた。昭和23年8月15日秋田県厚生農業協同組合連合会に代わった。
 終戦後、思想的変化もあって名古屋医科大学の卒業生が必ずしも教授命令により東北の田舎には赴任しないと言う時代になり、創立当時のようには医師を送ってもらえない状況になり、医局の再編を覚悟せざるを得なかった。名古屋医科大学の斉藤教授、初代院長だった田代教授それに佐々木民雄院長と相談の結果、それまでの深い関係から医局員の派遣を岩手医大にお願いする事に決まった。
 医局体制も固まり、総合病院を目指して、「二葉」など隣地を買収、昭和28年には病室も増築して180床の病院となり、いよいよこれからと言う時の昭和30年11月10日隣家の失火から白昼火災が起こり、病院は一部病棟を残して灰塵に帰した。一人の怪我人も出さずにすんだのは不幸中の幸いであったが、寄宿舎が全焼してしまい、職責を果たすため入院患者を運ぶことに専念して、持ち物すべてを焼いてしまった看護婦たちは気の毒であった。
 再建計画は難航したが県の松森厚生部長の協力を得、役所は御用納めに入った昭和30年12月29日、能代市山本郡の農協組合長、市町村長、市町村議会議長による病院復興計画協議会
において市町村から250万円の協力を得ることと、能代市の名義で厚生年金を借り入れることが決まり、ようやく再建は具体化したのである。
 昭和38年5月20日には能代市から250万円の補助をもらうなどして東病棟が完成し、340床の病院となった。
 このように創立時を振り返ってみると、70年という長い歴史において数多くの困難を乗り越えて、地域の人々の健康と命を守ってきた私たちの病院とそれを支えて来た先達には今更ながら尊敬の念を禁じえない。また70年という節目にその病院の職員として誇りを持って働く事の出来る幸せを心から感謝したい。
 地域の人々が作り上げ、先輩職員が守り育ててくれたこの病院で、我々はこれからも地域の人々と共に手を携えて努力を続け、未来に繋げて行かなければならないと決意を新たにした。

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