2002年5月28日号(NO.142)

能代市東京都

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 T先生が体調をくずし長期休診を余儀なくされたので、診療再開までの間私が彼の診療区域を手伝うことにした。向能代方面・開拓地区・常盤とその周辺である。とくに開拓地区は市の中心部からわずか5Km位のものであるが、能代に生まれ育った私にとっては大げさに云うと未踏の地である。そこは旧陸軍東雲飛行場のあった台地で見渡す限り平坦であり、遠くに望む白神山地の稜線は白く輝いて見事に美しい。少し奥に入ると適度な起伏があり、立派に舗装された広域農道が数本東能代方面から峰浜へと通じている。突然、信号機のない見通しのよくない交叉点に出くわすので、車を運転していてまことに危険である。開拓地区の患者は80才から90才の女性が多いが、往診も回を重ねるにつれてお互い気が楽になるもので、最近では来し方80年の歴史を話してくれることがある。時間もないし少しいらいらしながら片方の耳で聞き流すことが多いのだが、この一画に言葉づかいの丁寧な10軒ほどの集落があり、雑談の中で「ここは能代市東京都なのです」と云うのには驚いた。勿論俗称であり「正式な地名は能代市拓友、しかしこれは役所がつけた地名であり私達にとっては東京都です」と主張するのである。昔は秋田県能代市東京都という訳のわからない宛名でも郵便物が配達されたというから不思議なものである。何となく少し嬉しくなったので、両の耳を開いて人のよさそうな話し好きの老婆に事のいきさつを聞いてみた。

 戦前から戦中にかけて満州開拓団東京訓練所という役所があった。各地から農家の二男・三男を集めて農地開拓に関する技術を習得させるための訓練所である。一定の研修期間を終えるとやがて彼らは希望を胸に満州へと渡り、かの地で同胞の食糧自給をめざして農地開拓の事業に従事することになる。極限の労働だったというが、仕事に成功し人並みの生活を送れたのはごく一部の人であり、来る日も来る日も果てしなく続く北の大地との格闘であったという。やがて日本の敗戦と共に彼らは土地を失い、富を失い、場合によっては家族をも失って引き揚げ帰国するのであるが、迎え入れてくれる故郷もなく行きつく先はかの東京訓練所だったのである。この訓練所の紹介で再び新天地を求め辿り着いたのが東雲開拓地であり、これが“能代市東京都”の名称の由来である。東雲飛行場に隣接する荒地が一家に2町5反歩割り当てられ開墾するのであるが、作業機械は勿論のこと牛・馬もなく、くわとおのだけによる力作業だったと云う。1本の雑木の根を引っこ抜くのに土にまみれて半日を要し、早朝もまだ夜が明けきらないうちから一日中働き続けの重労働、日が落ちて小屋に帰る頃には腰は伸びないし肩から腕にかけては腫れあがり、痛みに耐える毎日であったと真剣に話す老婆は少し涙ぐんでいた。大豆と陸稲ではそれほどの収益もなく苦しい戦後の生活であったことは顔のしわが物語っている。入植当時30世帯ほど居た“都民”も、半世紀も経つとそれが10世帯ほどになってしまったと日中ぽつんとひとりで留守をしている老人は淋しそうに語っていた。

 元気で長生きするようにと祈りながら「東京都」をあとにする。
(S、S)
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