2001年10月30日号(NO.135)
デカンショ節と万里の長城
デカンショ デカンショで/半年ャ暮らす ヨイヨイ/後の半年ャ 寝て暮らす/ヨーイヨーイ デッカンショ/ この歌はご承知のようにデカンショ節と称して、昔の学生達がコンパをやって酒を飲んでは歌っていた威勢のいい歌である。
デカンショとは、3大哲学者と言ってしまえば、アリストテレスとか孔子とか古今東西に著明な哲学者がたくさんおられるから叱られるので、3人の哲学者と言っておくが、すなわちデカルト、カント、ショーペンハウエルを並べて短縮した造語と聞いていた。デカルトは17世紀のフランスの哲学者で、著書「方法序説」の「我思う、故に我あり」は有名な言葉で、ドイツ語で Ich denke , also bin Ich. ラテン語では cogito , ergo sum. である。カントは18世紀のドイツの哲学者で「我々のあらゆる認識は経験と共に始まるが、すべての認識が経験から生ずるわけではない」という有名な「純粋理性批判」と言う著書がある。ショーペンハウエルは19世紀のドイツの厭世主義の哲学者である。若き日の彼は、ナポレオン軍とドイツ、オーストリア、イギリスの連合軍との戦争の悲惨さを体験して、後年「世界に神の摂理はない。神は盲目だ。いや、神はない。この世界を支配しているのは、ただ衝動的に生きようとする意思すなわち生存意思(Wille zum Leben)なのだ。だから闘争が生じ、人生は涙の谷となるのだ」と、すっかり世の中が厭になった。小生も、20才代に彼の「意思および表象としての世界」と言う本を買ったことがある。その後捨てたと思う。
さて、以上のような非常に高邁な由緒あるデカンショ節のある節に「万里の 長城から/小便すれば ヨイヨイ/ゴビの砂漠に 虹がたつ/ヨーイヨーイ デッカンショ」と言う替え歌の歌詞がある。小生、いつか万里の長城に立って実際に虹がたつものか自分で試してみたいと、40年来常に思い続けていた。嘘でない証拠に、酒が入ったり寮歌を歌ったりすると、折にふれて小生が家内に言うものだから、昨年夫人同伴で中国に行って来たという小生の医学部の同級生の奥さんに、電話のついでに「実は主人は云々」としゃべったと言う。奥さんが言うには「そんな事をしたら、ちぢんじゃいますよ」と言ったとの事。
そうこうしているうちに、北羽新報に秋田空港からチャーター便での北京、西安などへの観光の募集が出た。成田や羽田からよりも2日も得をする。「それっ」と言うわけで申し込んだ。平成13年6月14日秋田空港より西安空港へ飛んで一泊。
翌15日に北京に飛んで念願の万里の長城へのぼる。東は渤海湾から北京を経て西はゴビ砂漠まで 6000Km とか。博多の元寇に対する高さ2mとかの防御塁とはスケールが違う。数千年にわたって北方民族の侵入に悩まされてきたのである。建設に動員された軍兵、農民の半分は生きて還らなかったと言われる。月から見える唯一の人工建造物と言う。
さて、試してみるべきか。各国の観光客もたくさんいる。ひんしゅくを買って日本人全体に迷惑もかけたくない。失敗が決まっていることに無理に挑戦して自信を喪失して鬱状態になるのは、人生の折り返し点をとっくに過ぎている今の年を考えるとやはり避けるべきか。家内は「口だけだ」と見抜いているらしく悩みの相談相手にもならない。
迷いつつ長城から北や南を眺めていると、ふと「厠」(かわや)の漢字と矢印が向こうに見えた。「おれ、あそこへ行ってくる」。家内は「集合時間に間に合わない!」と小生を置いて一人で出発点へさがって行った。「厠」の矢印に従って行ってみると、長城をはずれて細い草むらの道があり、バラック建ての有料トイレがあって料金係がいた。「ま、これで万里の長城で小便をしたことになるな」と、40年来の夢を何百分の一?に縮めて、1元(15円)を払って用をたしてきたのであった。さいわい鬱状態にならないですんだのであった。
そのほか、後宮に3000人の美女がいたという歴代皇帝が住んでいた紫禁城も広かった。テレビに大きな毛沢東の写真と共に映るあの天安門広場の内の方である。映画・ラストエンペラーに出てくる場所とそっくりの所もあった。3000人の美女と聞いて、みんながひそかに心配した事は「お声がかからない美女がたくさんいたのではないか」ということだったに違いない。ここで観光客が迷子になれば,捜すのに半日はかかるとか。迷子になったら、その場所から動かないでいてほしいと予め注意される。
北京から再び西安に飛び、8000体の陶製の兵馬が埋まっている兵馬俑を観る。秦の始皇帝が自分の死後のために造ったものである。中国古代では、人が死んでも魂は永遠という伝統的観念があったという。従って始皇帝の生前の全てを地下王国に持って行かねばならない。そして始皇帝の最高のそんげんを維持しなければならない。皇帝の魂が乗っている4頭だての銅馬車の車輪のスポークは30本である。車輪が1回転すると1ヶ月だそうである。始皇帝の魂は、小生がこの文章を書いている間も、8000人の軍勢を従えて4頭だての銅馬車に乗って冥土を疾駆しているに違いない。想像を絶する大きな権力とスケールの大きさに驚く。兵馬の整然とした隊列や役割分担、左右の守りなどを見るに、関ヶ原の合戦など以上に近代戦に近い印象を受け、これが 2000年前の事かとまた驚く。ここでも多数の人々が死んだことだろう。1974年3月に、荒れ地で井戸掘をしていた農夫が発見のきっかけをつくった。その農夫は字が書けなかったが、有名になって字を覚え、今ではそこの村長さんになり、「兵馬俑」の本を買った客にサインをしていた。
ついで、唐の時代の玄宗皇帝と楊貴妃との熱烈なロマンスで有名な「華清池」を観る。西安大学外国語学部日本語学科を出たという男性ガイドが、いろいろな漢詩を日本語で暗記していて小生と話が合った。小生としては、覚えている漢詩の場所が時々現れるので愉快であった。特にこの「華清池」は感無量であった。漢詩「長恨歌」の一部に「温泉 水滑らかにして 凝脂を洗う」の節がある。楊貴妃が入浴をすると、「華清池」の温泉の水はなめらかになり女盛りの彼女の肌を洗った。なるほど玄宗皇帝は惚れたわけだ。池に楊貴妃が下半身に衣をまとい、オッパイまる出しの白い立像があった。正直、「オッ、東洋でもこんな」と思ったくらいグラマー出会った。瞬間、ミロのヴィーナスを思い浮かべた。ガイドの説明によると、現代の中国女性はスリムだが、当時の中国女性は結構グラマーであったそうだ。また、本当かどうか分からないが、彼の説明では毛沢東がこの像を見に来て「堕落している」とか「資本主義の風潮に毒されている」とか言って怒ったという。毛沢東が怒っても、この像は撤去もされないで小生も見られたのである。非常に残念ながら楊貴妃はこの後、安禄山の変で殺されるのである。政(まつりごと)の乱れは楊貴妃にありと見られたか。実際、玄宗皇帝は政を行わず、ただただ「春には遊び、夜は夜をもっぱらにした」のである。愛人が殺されるのに対して、何らなすすべが無かった。「婉転たる蛾眉(楊貴妃)馬前に死す」である。両方ちゃんとやればよかったのに。皇帝といえども生身の人間の悲しさ、片寄りすぎたか。
ということで、ゴビ砂漠にかかるはずの虹はバラック建ての有料トイレのしずくにちぢんだが、6月18日鬱状態にもならず愉快に秋田空港に無事帰国した。
大ざっぱな印象だが、人口13億の中国は現在もそうだが今後10〜20年以内には大変な国力をつけてくる国のように思えた。同時に広い国土の13億の人民をまとめてゆくのも、問題があまりに多過ぎて大変だろうなと思った。
なお、デカンショ節はもともとは「でかんしょ節」と言って兵庫県篠山地方の民謡である。
平成13年10月記 (S.K)
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